最後の日

暑い夏の日、既に様々なものにお別れは済ませていた。最後に友人と遊びたくなって、午前九時に公園で待ち合わせする。自分には昔から二人の幼馴染みがいた。二人のうち一人は忙しくて来られないというので、もう一人と待ち合わせの約束をした。家を出る前にカレンダーの日付を見る。今日は八月三十一日。最後の日だ。家族には、夜までには帰ると伝えておいた。
約束の九時に、友人のかっちゃんは公園に笑って立っていた。自転車のハンドルに体重を預けて、いっき、と自分を呼ぶ。昔から変わらない屈託のない笑みだ。近付いて、お決まりのハイタッチを交わして、行き先の相談をする。市営プールに決まった。水着は持ってないけどいいか、と言って、自転車に跨る。市営プールは公園から自転車で走って二十分、生い茂った森のそばにある。昼食はそこから歩いても五分で着ける喫茶店でとることにした。プールに決めた理由は単純だ。暑いからだった。
はしゃいで泳ぐうちに二時間近くが経っていた。水着はロビーの店にある売れ残りのものを無料でもらえた。自分たち以外にもまばらに人はいた。水辺や水中にある表情は様々だ。泳ぎ終わってロビーで休む人々の顔も様々だった。おおよそいつも通りの光景のように思えた。信じられぬことだなぁ、と思う。
口に出しても言ってみた。
「信じられんな」
「何が」
ロビーの椅子に座り、厚手のタオルと扇風機の風を使って髪を乾かしているかっちゃんが訊いた。
古ぼけたテレビの映す昼のニュース番組を眺めながら、淡々とした調子で答える。
「今日が地球にいられる最後の日だってこと」
そうだよなあ、となんとも間の抜けた同意が返ってきた。

地球はあと十年の命らしい。現代科学が弾き出した寿命は覆しようがなく、人類は滅びゆく惑星からの脱出を始めた。幸い人間の住む環境になりえる惑星は既に発見されていた。そして環境の整備も滞りなく終わっていた。いくつもの話し合いが交わされ脱出の順番も決まった。あとは番号通りに生まれ星から離れるだけ。地球は最後ひとりぼっちになりひっそりと銀河系の中消滅していく。
そんな取り残される地球が哀れだと、なんとか地球の延命を図る研究チームもいる。彼らも最終的には地球から脱出する。もうどうにもならないと判断した時に脱出する。可能性だけはまだ生きている。

自転車を引いて坂道を上っていた。喫茶店でいつも決まって頼んでいたサンドイッチとオムレツを食べ、さてどうする、決まってんだろ、だよなぁ、とにやにや会話を並べて、町で一番高い場所まで向かうことにしていた。喫茶店を出る直前、もう何度と会話した店主のおじさんとその奥さんに感謝と別れを述べた。なんせまだコーヒーの味も知らない頃から俺たちは常連客だった。入り口にいつもいる熊のぬいぐるみを一撫でして店を出た。その感触を思い出せるうちはまだいい。きっとすぐ忘れてしまうだろう。いい店だった。最後に行けてよかった。腹持ちも心持ちも満足している。目の前に自転車を引っ張って歩くかっちゃんの猫背が見えた。風に煽られて後ろ髪がぴょんぴょん跳ねている。ばてているように見えるのは今まで散々町中を自転車に乗って走り回ったからだろう。二人で思い出の場所を一つ一つ点検するように巡ってきた。今まで暮らしてきた町を余すところなく疾走してきた。さすがに坂に差しかかる頃には疲れていた。ゆうるりと通り過ぎる風が心地いい。空が夕暮れになろうとしている。そろそろ町で一番高い、とっておきの場所に着きそうだ。首を回して、眼下に広がる景色を見渡す。
皮肉なことに八月三十一日という夏休み終了の印象が強い日にちに、この町の住人は地球暮らしの終了を迎えなければならない。一年前から学校へ行くのは義務でなくなった。有給休暇も取り放題だ。あちこちの家族が未練の残らぬよう見たいもの、やりたいこと、それらのために世界中へ出掛けていったので、町はしばらく閑散としていた。今日は、終わりの日を自宅でゆっくりと過ごしたい人が多いからなのか、大半の住人が町に戻ってきているような気がする。
その証拠に、坂の上から見下ろす多くの家の窓にぽつりぽつりと明かりが灯ってきていた。
「かっちゃんあれ見て」
振り向く彼に明かりを指差して教えると、おお、と感嘆の声を漏らした。
「明かりこんなについてんの久しぶりに見た」
「なー」
「やっぱ最後は我が家が一番ですわ」
げらげらと笑い声を響かせて自転車を押していく。

頂上について意味もなくまたハイタッチを交わして同時に空を見上げた。一番星が光り輝いていた。この場所で、これを見に来た。
「よっちゃんにも見せたかったなぁ」
今日ここに来られなかった友人を思い浮かべる。小学生の頃、放課後の夕刻にこの場所を教えてくれたのが、三人の中で一番の物知りなよっちゃんだった。彼は星を見るのが好きだった。空も遠くの景色も綺麗に見渡せるこの場所は三人のお気に入りだった。教えてもらってからは、遊びの最後にたいてい競争しながら坂を上り、ここへ来て一番星を探していた。自分たちにとって終わりとはこの場所を示していた。
しかしまあ終わるのだなあと思った。地球は終わるのだ。いずれ地球最後の日が訪れるだろう。今日は地球で最後の日だ。
「終わるなあ」
「何が? 地球が?」
「今日という日が」
「まだ夕方だよ」
かっちゃんが至極もっともなことを言った。そうだまだ夕方である。でも夜には家族と共に家を出発して星を発つ準備をしなければならない。
人類が散々消費してきたのだから地球がなくなるのは仕方のないことだと思った。なくなると決まったものはしょうがないので、自分は家族と一緒に今まで行きたかった場所に全て行ってきた。会いたい人にも会ってきた。最後に友人と会って遊ぶこともできた。悔いは、悔いは残ってないはずだ。
「いっき、泣きそうになってる?」
覗きこもうとしてくる顔を避けるように蹲って額に手をあてる。
「かっちゃん笑わんでね」
「うんー、笑わんよ」
目の前に大地が見え、町が見え、その向こうに宵に沈み込む空が見える。見慣れた景色。もう二度と出会えない景色。
「俺は結構この町から、いやこの星から離れたくないのかもしれない」
友人は腹を抱えて盛大に笑った。
「おまえ本当今更」
「やあ実に」
「俺もだよ、俺もはなれたくねーよー」
思い切り伸びをしながら、酒でも飲みたいけど飲まない、と彼が言った。見れば、目尻に刻まれた皺がさらに寄っている。自分たちももういい大人だ。いい四十代だ。きちんと家に帰ってしっかりと家族を守らねばならない。
「家族とさえ一緒にいれりゃどこ行っても構わないのは本当なんだけどな」
「大切なご友人と離れることになっても?」
「だって離れるような気がしないし」
だなー、とかっちゃんが屈託なく笑っている。町や県ごと引っ越せる訳ではないので、自分たちは向こうで住む場所が離れると確定している。それでも生きている限り、きっとまた会えるだろう。
もう帰るか、と瞬く星の増えだした空を見上げ言った。この期に及んでかっちゃんが、地球なくならないでほしいな、と呟いた。
「よっちゃんに頑張ってもらわないとな」
恐らく今もどこかの研究室で惑星を救おうとしている友人を思い浮かべる。
宵空の瞬きが一段と強くなった気がした。住む星が変わろうとも必ず、星は頭上で光り続けている。