この時間が永遠に続くだなんてこれっぽっちも思ってなんかいやしないけどさ。
続けばいいのになぁ、なんて願いごとは、ちょっとだけあるんだよ。
「寂しくないの」
「ちょっとだけ」
「うん」
枯れてしまった生命を見下ろす。原因はこの間の大雨で、ざあざあと降った水が茶色に濁って土を蝕んだ。葉脈が崩れて、根は丸裸に晒されている。無念だったろうな、と物言わぬ生命体の内心を案ずる。花、咲かせたかっただろうに。
優しくそっと拾い上げて、庭の隅にある錆びたドラム缶の中へと放った。露を含ませた枯草の匂いがそっと隙間から入り込んでくる。火輪は目を覚まして快調だ。草いきれ。
このままじっとしていたら、汗が止まらなくなるだろう。額を拭いながら振り向いた。火輪が腕の裏を焼き焦がす。目を合わせるより先に唇を動かした。
「暑いよ」
「早く」
「待って」
「プール、準備した?」
「した」
口をはにかませて、麦わらを握る。その姿が勝手に弾んで、影と一緒に玄関口へ駆け抜けて行った。待てよ、と笑いながら追いかける。泥濘が沈み、水溜りが跳ねた。
この家でたくさんの遊びをした。
鬼ごっこやかくれんぼなどの定番から、風呂敷マントの海賊ごっこ、背比べ、秘密基地。雨が降ったら絵を描いて、止んだら長靴を汚した。猫の隠れ道を探したり、鳥が囀るのを待ってみたり。古時計が響くまで遊んで、ごく自然に近い未来の約束を交わした。
ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼんのます
全部、忘れてないから思い出せる。柱の傷も、使わないダンボールの置き場所も、クレヨンの長さも、変わっていないから。覚えてる。庭に咲く花の香りも、飼い猫のトイレのアンモニア臭も、服に染み付いた泥のにおいも、覚えている。
いつも思い出しているわけじゃないけれど、いつでも思い出すことができる記憶が、少しずつ、少しずつ、変容する。
きっかけがあって、また思い出す。
みどりみのあおの雨が降る。嵐の次の快晴の次の重い雨。鉛色で世界を塞いで、深い深い深海に閉じ込めてしまった。閉じた世界の更に閉じた室内で窓を眺める。昨日見た畑は、確認するまでもなく水浸しだろう。
丁寧に紙を折る。神経を澄ませて、心を落ち着かせて。想いを込めて。
ふ、と雨足が弱まった。窓の外を見上げる。天然シャワー、と昔からよく言った強度の雨が降り続いている。風邪を引いた夜のことを思い出した。嫌いじゃない。この雨音も、記憶の中の林檎の味も、心配そうな顔も。嫌いじゃない。だから。
「窓の外に何かあるの?」
部屋干ししていた洗濯物を畳みながら、母が聞いた。
「なんもないよ」
「じゃあ、雨見てるだけか」
無言で肯定する。素っ気無い息子の態度を気にせずに母はせっせと手を動かせる。
「雨もいいけど、あんた、自分のやるべきことちゃんとやった?」
「あー……」
「まだもう少し時間あるけど、なるべく早く終わらせなよ」
玄関のチャイムが鳴った。母がはーい、と余所行きの声を出して向かう。がらがらと戸の開く音が聞こえ、次いで母の発した頓狂声が壁越しにもよく響いた。歓迎のニュアンスに脳裏で幾人かの顔を思い浮かべる。少しして戻って来た母が明るい調子で言った。
「あんた、咲ちゃんが来たよ」
雨はもう既に上がっていた。
夕立後の空は徐々に雲が減って段々と光度を増していく。西の地平線上空には夕焼けができ、強い光で辺りをいつもより照らした。自転車の車輪が濡れた石と擦れてじゃりじゃりと音を立てる。蛙が鳴いている。
「なんで俺んちだったの」
「一番近かったから」
「鳥居の家のほうが近いよ」
「え、だってトリが宿題してたら悪いじゃん」
「ああ、そう」
陽は確実に翳っていく。視界の端っこからぼんやりとくすんでいって、気づかぬ間に全体をすっぽりと飲み込む。今はまだ、穏やかに明と暗が溶け合っている。そんな頭上で、点のような虫が構うことなく旋回してくるので、迷惑そうに手で追い払った。
「課題、終わった?」
「まだ」
「あたしもー」
「帰ったらやんねーとなー」
「さしは特に気ぃ抜けないねぇ」
「なんで?」
「だって、最後は先生にいい印象で終わらせたいじゃん」
「……田島も抜くべきじゃないかと」
「私は普段からちゃんとやってるもん」
「俺も普段からちゃんとやってるよ」
蛙の声が聞こえる。夏特有のむわっとした湿気がさらりとした風に取り払われて心地いい。砂利道の脇に生えた月見草が風にあたりふわふわと左右に揺れている。それよりも背の高い植物を思い浮かべながら口を開いた。
「昨日さ」
「うん?」
「台風来たじゃん」
「きたきた! もうなんで学校ある日じゃなくて土曜に来るんだって妹とテレビ見ながら話してて」
「それさ、俺も思ったけどよ、あのそういう話じゃなくて、なんていうか昔なかった? ああいうの。あったよな?」
「なにが?」
「えーと、台風が来てさ、雨で俺んちの庭の畑ぐっしょぐしょになって向日葵の苗枯れちゃって、そんでその後すげー晴れてプール行って、みたいな……」
「あったあった! 懐かしいなー。確かあれ、私とさしが一緒に植えた向日葵で」
小さい頃田島と植えた向日葵を開花前に枯らした。豪雨が原因だった。
「まだ咲いてなかったのにね。見たかったなぁ咲いてるところ。あ、昨日の雨で今咲いてるの大丈夫だったの」
「うん、それでさ、土砂降り見てたら思い出して嫌な予感したから傘差して畑見に行ったの」
「生きてた?」
「うん生きてた。ピンピンに。植物ってすごいんだな」
「私らじゃなくておばさんが植えたやつだからかもしんないよ」
そう言って田島が笑う。ついつられ笑いをした。
田島が立ち止まって道端に設置された赤いポストに封筒を投函する。
「それ北大の?」
「うん、今年度四通目」
「すごいな」
「月一だからね。ちゃんと届きますよーに」
田島が頭を下げて神社に参拝する時のように二回拍手を打った。
田島は絵が上手い。まだ鉛筆とペンとクレヨンしか使ったことのない頃、雲を描こうとして一生懸命白い丸を描き並べる自分の横で、白いクレヨンを巧みに使い鰯雲を表現した友人を見た時は相当驚いた。彼女は将来絶対に絵が上手くなる人だと、自然と信じ込んでいた。
事実、田島の画力は向上した。好きこそ物の上手なれな部分が大きいのだろう。田島は積極的に美術の専門学校に受験することを早期から決めていて、高一の頃から一年経った今までずっと自己アピールを送り続けている。
脇に挟んでいる買ったばかりの特大画用紙も、恐らく何か絵を描くために購入したんだろう。折るわけにも行かないそれを自転車籠に入れることが出来ずに、結局こうやって自転車を押す係が必要になったわけだが。
田島の腕に引っかかる傘がぶらぶらと揺れている。自転車なんて、最初から必要なかったんでは、と今更気が付いたがそれを今更つっこむのもあまりにも今更な気がしてやめた。
田島が発想力のある分どこか抜けた行動を取ることは昔からも度々あることだ。
大事そうに画用紙を抱え直して歩き出した後についていく。
「『七色の星空』」
「え?」
「お前中学の時にこんなタイトルで銀賞取ってたよなーって思い出して」
「あれかー、連絡聞いた時すっごく嬉しかったなぁ」
「オカケンの喜びようハンパじゃなかった」
「すごかったもんねぇ、あたしより喜んでるんだもん」
「熱い先生だったよなー、嫌いじゃなかったけど。新平が短距離全国大会優勝した時なんかほんとやばかった。お前担任じゃなかったから知らなかったと思うけど、もうホームルームぜんっぶ陸上の話!」
「何それウケる」
ハハハ、と田島の笑い声が響く。何の飾り気もない素の笑い声が響いている。破顔とその声とあの時の岡山先生の熱血過ぎる話しぶりが腹の底から可笑しさを生み出して声と顔に出た。心の底から楽しい。
「もうほんっと、女子から『先生、その話いつまで続くんですか』って、大真面目に言われてやんの」
「オカケンサイキョー」
「でさ、この間清水から聞いた話だとさ、あの人まだあの学校で熱血教師やってるらしいよ」
「あ、あたしそれ知ってる。チホが会って話してきたって」
「え、マジ、どんな感じだったオカケン」
「ぜーんぜん変わってなかったって。一見温厚そうに見える中身昭和教師のまんまだってさ」
「うっわー、なんか嬉しいなそれ、オカケン変わってねーんだぁ」
「ずーっとあの百日紅の前で喋りこんでたって、七時くらいまで」
「サルスベリ? ああ、あの木か」
朝礼台の裏に生えている淡褐色の大きな木。夏から秋に白色の小花を咲かせて、校庭に彩りを添えていた。
「そうあの高い木。……あ、サルスベリと言えばさー、覚えてる? 小五の時さしが間違えた事件」
「小四じゃなかったか。覚えてるよ。しっかりと」
ある日田島がふいに「サルスベリの花が欲しい」と言ったのでその願いを叶えてやろうと、そこらへんに立っていた百日紅の木をなんとか登りやっとこさ花を摘んだ。しかしその花を得意顔で田島に渡しに行ったら「これじゃない」と即座に一蹴された、事件というには小規模な悔しくて物悲しい思い出だ。
「あれじゃなかったんだよね、私が言ってたの。色は合ってたんだけど、形が違ってたから」
「姫娑羅、っていう植物なんだよ、本当は」
「ひめしゃら?」
「ツバキ科の落葉高木。樹皮が滑らかなことから別名サルスベリとも呼ばれている。本当の百日紅はミソハギ科の落葉高木で、俺が登った方がこっち。だから田島が欲しがった花の咲く木の正式名称は、姫娑羅」
「すごい、調べたんだ」
「悔しかったんだろうな当時の俺。今でも暗記できるくらい必死に覚えてた。結局挽回することもどこかでこの知識を使うこともなかったけど」
「ごめん、私じいちゃんからこの花はサルスベリと言うんだって教えられてたからずっとあれが本物のサルスベリだと思ってて。じいちゃんすごいこの花が好きだって笑ってたから実物を見せてあげたいなって思って」
「え、まって、あれって田島が欲しがってたんじゃなかったの?」
「違うよ、じいちゃんに見せたくて言ったんだよ」
あっけらかんとした田島の顔にほんの少しばかし落胆した。女子に対して何かと格好付けたかった当時の自分が哀れで不憫に思えてくる。
「あ、もしかして更に落ち込んじゃってたりしてる?」
「あーもういい、その話やめてください、テンション下がる」
田島の笑い声がまた響いた。今度はちょっと上手く同調できない。
「かわいいなー、さしは。『咲ちゃん、咲ちゃん』って呼んでたときはもっと可愛かったけど」
「ちょ、そういうのやめてよーもー」
「じゃあさしのテンション上がる話しよっか。明日から一週間コンビニのからあげ棒一本八十八円」
「え、マジで」
「雑誌買いに行ったらおばちゃん言ってたもん、キャンペーンやるからみんなに宣伝してきてねって」
「うわー、行く行く。明日の学校帰り絶対に行くわありがとう田島サン」
「どーいたしまして」
「あ、そういえばさ、コンビニのおばちゃんって三年前犬飼い始めて」
田島の顔付きが少し変わった。口を止めて息を吸い込む。辺りは家を出た時よりも大分暗くなっていた。
「ねぇ、さしさ、なんで今日そんなに思い出話多いの」
「え」
「もしかして、寂しくなってきちゃった系?」
田島の声と顔は明るい。そこにほんの少し切なさが入っているような気がするのはただの思い込みなのか単に自己投影なのか。
「えー、……わかんない」
素直な気持ちを述べた。小さな水溜りに自転車の前輪が浸かる。蛙の声は止んでいた。
「なんか、自然と記憶がぽんぽん脳内で出てくる感じ」
「寂しくないの?」
「なんだろう、ちょっと、いま、寒い」
田島咲の家が近付いていた。とっくに陽は沈み切って、夜の帳が下りている。
もうすぐ手に馴染み出していた青色のハンドルを手放す。田島が自分の家に帰って行き、自分も自宅へと帰って行き、眠ればまた明日が来る。
ちょっと、いま、寒い。
五日後に、我が家は都会へと引っ越す。
もう田島にも、鳥居にも、オカケンにも、新平にも、清水にも、チホにも、コンビニのおばちゃんにも、他のみんなにも容易には会えなくなる。
小高い丘の上にある自宅の庭で缶コーヒーを飲んでいた。出発の日。自宅はもぬけの殻に等しく、「猿島 –さしま-」と書かれた表札すら見当たらない。
人の背丈程高く大きく成長した向日葵の向こう側から、田島がやって来た。当日はばたばたするという理由でお別れ会は前日にし終わっている。今日の出発時刻を教えてあるのは田島だけだ。本当に赤ん坊の頃から一緒にいた、たった一人。
「なにしてんの」
「父さんと母さんが、やっぱりもう一度ご近所さんに挨拶回ってくるから疲れてんならここで待ってなって」
「そっか」
缶を傾けながら、快晴の青空を仰ぐ。白い雲が浮遊する様を見て、今の田島ならあれをどう描くのだろうかと考えた。火輪の光が容赦なく降り注いでくる。空になった缶を地面に置いて、そのまま草の上に座った。田島も当たり前のように近くに腰を下ろした。
「あのさ」
「うん」
「俺思ったんだけどさ。この土地と別れたら、だんだん時が経つにつれて忘れることも増えるじゃん。たまに写真とか見て思い出しても、絶対思い出せなくなる記憶があると思う。んでさ、田島も、みんなも、同じように記憶が薄れていくと思うんだ。それぞれ違った箇所を、忘れて思い出せなくなる、気がする。だからさ、たまにまたこうして会って、一緒に思い出話して、そしたらさ、共有した思い出をまた覚えられるんじゃないかなって。んでさ、二人同時に忘れちゃったら、その分だけまた新しい思い出作ればいいじゃんって、思ったの」
涼やかな風が皮膚を撫でる。どこかで蝉が鳴いていた。
「だから、またここに来るから、これ、田島が植えてちゃんと花咲かせといてよ」
ポケットから出した紙で折った小包を差し出す。お椀型に出された掌にぽとりと落とした。
田島が丁寧に紙を開いていき、中身を確認する。黒と白の縞々が特徴の花の種子。
「分かった、ちゃんと咲かす」
太陽に翳して、嬉しそうに微笑んだ。また紙に包み込んで掌に収める。
「向日葵の話で、私この前思い出したんだけど、さし、昔さ、枯れた向日葵の苗見て私が寂しくないって聞いたらちょっとだけって言ったじゃん」
「うん、言った気がする」
「今、どれくらい寂しい?」
苗を枯らした日のこと。友人や知り合いの顔。見慣れた風景。
「明日も一年後も変わらずここにいて暮らしたいなぁ、って、死ぬまでここにいたいって割と本気で思うくらい」
言った瞬間、風景が霞む。また会えるって思わせてはいても、寂しいという気持ちは、ちゃんとあって。
「ちょっと待ってて」
田島が丘の下へ向かう。しばらくして四角い何かを持って上ってきた。近くでよく見ると、額縁。
「何を描こうかなってずっと考えてたんだけど、この前話してた時に、これに決めた」
手渡されて、表に返す。夏に咲く太陽のような花。一面に広がる黄色に、優しい緑と爽やかな青と白。
「これで少しは寂しくないと思うから」
喜びが胸の内側から溢れて、軽く息が詰まりそうになる。
「でか……」
「絶対大学受かってそっち行くから、それまでの代わりということで」
「え、お前来るのかよ」
「行くよ」
蝉の声が強い。
「待ってて、すぐに行くから」
未来を、想像した。さっき考えていたものよりも、遥かに心地いい未来。
「分かった、待ってる」
指切り拳万、嘘吐いたら針千本飲ます
丘の下で乗用車の止まる音が聞こえた。父が車から降りて荷台を積み直し、母が窓ガラスから顔を出して下りてくるように呼んでくる。空き缶を掴んで立ち上がった。
「じゃ、またいつか暇な時に。みんなによろしく。あ、絵ありがとう」
「こっちこそ種ありがとう。元気でね」
小さく手を振り合って背を向ける。後ろで何かを啜る音が、聞こえたような気がする。
歩き出してふと下を見ると、父が草に滑って体勢を崩し、慌てて車にしがみついていた。母が呆れ顔で苦笑する父に何かを言っている。あ、と後ろで確かに声が聞こえて、振り返った。
「さるすべり」
目が合う。田島の言葉の意味がじわじわと脳髄に浸透し、堪え切れずに噴出した。田島も可笑しそうに腹を抱えて笑うものだから、更に声をあげて笑った。
「ねぇ、だって、あれもサルスベリの一種じゃない?」
「ツバキ科でもミソハギ科でもないな」
「ヒト科のね、あははっ、じゃあね」
「じゃあなー」
笑い顔を直せないまま車に乗り込んだ。運転席に座った父がエンジンをかけながら「いくらなんでも二人とも笑いすぎだ」なんて少し拗ねたように言うものだから、余計笑いが止まらなくなった。
ああ明日にでも田島に話そうかな。
笑いながらそう思い、笑いながらその意味を考え、笑いながら少し切なくなった。
両腕に抱えた額縁をそっと握る。これから見知らぬ場所で、見知らぬ人々と、何かが始まる。ゆっくりと車が動き出した。振り返る。まだ、何が始まるのかは、何も知らない。
広がっていく世界で、忘れたものをまた何度でも覚えてゆく。繋がっていく道の中、別れた人たちとまた何度でも出逢ってゆく。
バックミラーの向こう、丘の下まで下りて手を振る人影に手を振り返した。遠くなる姿を目に焼き付けて、やがて前を向く。
腕の中にある満開の向日葵が、時は続いていくのだと、優しく告げていた。
See you again!