星屑が敷き詰められた道を、ずっと歩いていた。ふと顔を上げれば依然として彼女が長い黒髪を揺らし前を歩いていて、そのことに少し安堵する。いつどこであろうと毅然とした態度を崩さない彼女は、微塵も顔を下向かずにただ前だけを見て進んでゆく。一方此方は、足元の星屑が気になって、さっきから下ばかり向いて歩いていた。星屑とは、富裕層が手に入れて観賞用にしたり、大きなホールの照明に使われたりする物であるから、こんな風に、ましてや一庶民の自分が、踏んで歩くなど経験したことがない。星は踏まれても瞬き、音を奏でるのだと、普通に生活してどうしたら知れる。星の一つ一つに与えられた音階があるのか、歩を進めるごとに違う音が鳴る。演者にもなった気分で、時々強弱をつけてみた。そうして自分はそこそこ、この状況を楽しんでいるのだと気がつく。
かれこれ三十分以上、あるいはもっと長い時間の間、変わらぬ景色を歩いている。道は長く、ずっとずっと続いていて、果てがないような気がした。喉が渇く。ただ、耐えられないほどではない。立ち止まってはいけないのだろうと、体のどこかが告げていた。立ち止まることはできない。自分は彼女の引力に引っ張られているのだ。不思議と足は喜んでいる。たぶん、浮かれている。周りは暗がりにぽつぽつと細かな灯りがあるだけで、あとは道と、彼女と、自分以外、何も確認できず、心理的な盲目状態の可能性も考えたが、いやどう考えたってこの景色が現実としてあるのだろう。宇宙のようだ。
「大丈夫ですか、ナオトさん」
前方に声をかける。返事はない。息を吐いて、視線を彼女の足元へまで下げる。
道幅は大人が三人横に並べるほど。だけれど、端に沿うようにできた障害物は何一つない。ここを踏み外せば、どうなるのだろうか。星屑たちは固められているのか欠片が落ちる場面も見ない。ただ落ちれば二度と元の生活空間へ戻れなくなる想像はつく。少しだけ怖いな、と感じる。落ちるのは困る。
ここにいるきっかけはナオトさんだ。彼女がついてきて、と言ったので、自分はそれに従ったのだ。
ほろ酔いもそこそこに飲屋を出て、裏通りへ行き、そこから更に細い道に入って、それからのことはよく覚えていないのだが気が付けばここを歩いていた。途中、何かしらの店の壁に片手をついて嘔吐し、彼女に背を擦ってもらった記憶だけがぼんやりとある。ちょっと前までは未成年であったのに、程度も知らずに胃に入れたのが悪い。思えば、ほろ酔いだったのは彼女だけだったかもしれない。
いつまで続くのかと思われた道も、どうやら終わりが来たようだった。といっても、目に見える景色は変わっていない。彼女が立ち止まっていることを除けば。自らも足を止める。彼女が片手を上げて、前方の扉を押し開くような仕草をした。と、同時に、何もなかった場所に扉が現れた。どうやら開いた後に姿を現すタイプの扉らしい。扉の中央より上付近に、四桁の数字が書かれたプレートが付いている。確かこのタイプの扉は、その在り処を知る特定の人物にしか開けない仕様のはずだ。数字は、目の前の扉が立つ場所に付けられた住所のようなものなのだろうか。彼女が腕を押す度、向こう側から漏れる光量が増す。向こうは、白い世界だった。
「ついてきて」
また彼女はそう言って、振り返りもせずに先へ進んだ。
ナオトさんは俺の恋人である。紛うことなき俺の思い人であり、紛うことなき美人である。
初めて大学で彼女を目にしたときにはもう驚いた。見るからに聡明そうな目尻。お淑やかな指先。控えめに主張する唇。きりりと地に着いた両脚。それらが眼前に飛び込んできた。何より。
星屑が見えたのだ。
一目惚れをした瞬間に脳内に走った光、それが無数の小さな星のような画を見せた。昔からとびきり幸せになると世界に星屑が散るのだ。美しい幻覚はそれからの日々を彼女への猛アタックに費やす理由に十分なった。
「頑張り屋さんなのね」
髪を茶色に染め軽いノリをした、自他ともに今ドキの若者だと認める自身の涙ぐましい努力の様を、可愛いや可笑しいと感じたのかもしれない。徐々に彼女の心は開いていった。年上の彼女にとっては、必死に姉に懐かれようと頑張る弟のように思えたのかもしれない。あるいは、人型の犬であろう。それでも構わなかった。
ナオトさんが扉を抜けたのを見て、躊躇せず後に続く。白い世界に両足を着けた途端扉は音もなく消失して、まるで最初から何もなかったかのような空間だけが残った。一瞬此方を振り返ったナオトさんがほう、と息を漏らして、また前を向いて歩く。確かな足取りだ。
地面も空も白っぽい世界は、けれども眩しくはなく、ノートの表面のような落ち着いた色合いをしている。点在する四角い建物は家なのだろうか。ここはどんな場所なのだろう。
何も知らずにただ彼女の後をついていく。怖くは、ない。
目的地を目指す明確な足取りで彼女は白い街を踏みしめる。見たこともない植物が生えている。地球でないような気はする。
しばらく歩いて唐突に彼女が言った。
「オサムくん」
「え、はい」
「私、オサムくんに謝らなきゃいけないことがあるの」
唐突も唐突だった。
「え」
謝らなきゃいけないことって? 首を傾げる。
「後で話すわ」
今は話せない、ということだった。
彼女が謝らなければならないほどのことを、自分に何かしただろうか。思い当たる節は何もない。むしろその逆で、自分が彼女に何か謝るべきことをしでかしていないかどうか、それが気になった。歩いている内に酔いは醒めたが、その前までの言動が不確かである。何か勢いあまって大声で彼女に叫んだような気がしないこともないが、内容をまるで思い出せない。どうしよう。
そうこうしている内に一件の家の前に辿り着いた。
ナオトさんが足を止めて、
「着いたわ」
と、はっきりした声で言った。
「……ナオトさん、ここは」
「私の家」
聞き間違えでなければ彼女は今私の家、と言った。思考がフリーズしかける。
「え、ここが、ナオトさんのおうちなんですか」
つい聞いたばかりの答えを反復してしまう。彼女の家を見たのは今日が初めてだ。
「実家。中にはお父さんとお母さんがいるわ」
更にすごいワードを聞いてしまった。
丸みのある屋根が特徴的な、クリーム色の塗装をされた家。それがナオトさんの実家だった。彼女の故郷の話は、今まで聞いたことがない。聞いたとしても、どこか断片的で、はぐらかすような言葉ばかりで。深く詮索はしていなかったのだけど。
真横に立つ彼女の顔を見つめる。彼女は此方を向いて、申し訳なさそうに眉尻を下げて言った。
「急なことで悪いのだけど、二人に会ってほしいの」
息を呑む。視線が彷徨い、ナオトさん、と無意識に声が出た。そんな自分の様子に彼女は微笑し、安心させるような声色で言った。
「大丈夫。二人ともきっとオサムくんを歓迎してくれるから」
確かにその通りに、二人は歓迎してくれた。娘の彼氏に相応しいか見極めてやるとばかりに圧をかけられることを予想していただけに、内心ほっとしたと同時に、どこか拍子抜けした。
母親のケンタさんは優しい目尻をした美人で、ナオトさんと顔立ちがよく似ている。父親のヨシミさんはがっしりとした体型の落ち着いた声で話す人で、笑顔が無邪気な子供のようだ。
ケンタさんの淹れた美味しい緑茶を啜り、出された茶菓子を遠慮なく戴く。隣に座るナオトさんのカップには、澄んだ青色をした液体が注がれていた。
「オサムくん、私ね、実は宇宙人なの」
またも唐突に告げられた言葉がそれだった。咀嚼していた甘味を飲み下して、矢鱈ゆっくりと緑茶を啜った。飲み慣れた渋味をじんわりと舌で感じてから、二度瞬く。
「びっくりした?」
「……そりゃあ、まあ、ずっと地球人だと思ってたし」
でも納得はできる。彼女の形容しがたい独特な雰囲気は、生まれ星の違いから生じていたのだ。
確かに地球には他惑星からの留学生が大勢いる。大学も例外ではない。ただ大体は一目で地球人でないと判断できる外見をしているため、最初から地球人そっくりな彼女を疑うことがなかった。
「この星の人たちはみんな地球の人と似ていて、適応力も高いの」
両手でカップを持ち上げて、綺麗な姿勢で中の飲み物を飲んでから彼女はそう言った。
それにしてもすごい馴染み具合だ。それとも、全く気づかなかったのは自分が馬鹿だったからだろうか。
ここに来るまでに通ったあの星屑でできた道は、本当に宇宙空間に存在するものだった。異星人のための公共通路らしく、見えないだけで道中には幾つもの扉があるという。彼女が教えてくれた。
「ナオト、そろそろ時間じゃない」
ケンタさんが優しくそう問いかけてきた。ゆっくりと立ち上がったナオトさんがこちらを振り向く。
「帰る前に、ついてきてほしい場所があるの」
夜の海のように静かな目で見つめられる。頷いた。彼女の両親にお礼と別れの挨拶を告げると、
「またいつでもいらっしゃい。これからもナオトをよろしくね」
と微笑まれた。くすぐったい気持ちになりながら会釈し、彼女と二人家を後にする。
そこは青い場所だった。どこを見ても世界が空ごと瑠璃の色に染まっている。ナオトさんの家から歩いて数分が経っていた。綺麗な場所へ相手を連れて行くのは、いつだって俺よりナオトさんの方が上手い。
色んな大きさの石が転がっていて、小さな川が流れている。とても静かで、二人の靴が石を蹴る音以外聞こえない。涼しい風を頬に感じる。彼女の後姿を見ながら黙って歩くのが好きだな、と思う。跳ね上げた小石が小川にぽちゃりと沈んで波紋を広げた。立ち止まった彼女に少し遅れて足を止める。くるりと彼女が振り返った。と同時に、景色に光が入る。淡い。
ふわふわと丸い光が空中にぽっと灯った。蛍のようだ。溜息が漏れる。
「昔から、ここがお気に入りなの」
彼女の声が響く。
「一度オサムくんに見せてあげたくって」
柔らかな優しい顔が瑠璃と金色の中に映えて視界が滲む。
「……綺麗ですね」
「でしょう?」
毎日この時間だけなの、と彼女は言う。幼い頃からよく一人で来ているとも。
「危なくないっすか、一人で」
「平気よ、ここあんまり人が来ないから」
思わず眉を顰めた。時刻は正確には分からないけれど地球でいえば恐らく深夜にあたるだろう。
「そんな顔しないの」
腕が伸びてきて、くしゃくしゃと髪を撫でられる。やっぱり子ども扱いなような気がするし、犬扱いなような気がする。
「ナオトさん」
非難と照れが混じった声を上げると、彼女が一層機嫌の良くなった顔で微笑んで言った。
「私、オサムくんがそう呼んでくれる声好きだなあ」
唐突。唐突だ。
熱くなった顔で は、とか え、とか情けない声を漏らす。彼女が少し遠くを見るような目に変わって、言う。
「私の星って文化がそれほど地球と変わらないんだけど、やっぱり違うところも多いの。名前の付け方が男女で地球と正反対だから地球に来た最初はよく気にしてて、でもオサムくんは、初めて会った時に素敵な名前だって言ってくれたでしょ」
「言いました」
「あの時すごく嬉しかったの」
淡い光が周囲でぽつりぽつりとゆっくり明滅する。僅かな川のせせらぎを耳が拾った。
「そういう優しいところが好きだなあって」
まいったな、と思った。彼女はなんでもないような落ち着いた声でいつも、すごいことを唐突に言う。最近になってから表情の変化が分かりやすくなったが、最初のうちはほとんど変化がないに等しい状態だったことを思い出す。好きな相手からの突然の告白に慣れることなどできるはずがない。
脳内が温かい液で満たされて、胸がいっぱいになる。瑠璃色の中で風に煽られた長い黒髪が舞う光景が、目に眩しく映る。本当に世界一美しいと思った。だから、成人を迎えてからずっと胸のうちに秘めていた言葉を、今口に出そうと決めた。
「俺と結婚してくれませんか、ナオトさん」
少し声が震えた。正面にある瞳が確かめるように瞬いて、それから細められる。彼女の唇から、しっかりとした答えが返された。
「……お願いします」
体から力が抜ける。
ナオトさんがふいに口に手を宛がって、可笑しそうに笑った。その様子に訝る。
「よかった、もう一度ちゃんと聞くことができて」
「もう一度?」
「覚えてないかもしれないけれど、オサムくん酔ってるときにもプロポーズしたの」
どこか楽しそうな声色が言った。それで思い出す。勢いあまって大声で叫んだというのは……嗚呼。
恥ずかしさで蹲りそうになる。
「私、宇宙人だけれどいいの?」
彼女が心配そうに聞いてくる。なんて聞くまでもないことを。
「異星人間結婚なんて今時珍しくないですよ。それに、ナオトさんたちからしたら俺だって宇宙人だし」
そう言うと、安心した顔で笑った。そしてさらりと言う。
「私の星の人たち、他の星の人には厳しいところがあるの」
その言葉に目を見開く。え、と驚きの声が漏れる。
「でも、ナオトさんのお父さんとお母さんはとても歓迎してくれたけど……」
「それでね、オサムくんに謝らなきゃいけないことがあるの」
頭の中に疑問符が浮かぶ。てっきり、謝罪とは宇宙人であることを黙っていた件だと思っていた。
「ここに来るまでに、長い星の道を渡ってきたでしょ?」
頷く。帰りにもう一度歩き戻らなければならないのかと思うと少し億劫だ。
「本当は私、テレポートが使えるの」
……え。
「じゃ、じゃあなんでわざわざ歩いてここまで」
「それが私とオサムくんが認められる条件だったから」
開いた口が塞がらない。正直、宇宙人だと言われたときよりも驚愕していた。
「私の星の慣習で、他の星の人と結婚したいときには相手が自分を愛して信頼していることを身近な人へ示さなければいけないの。オサムくんがクリアしなければならなかった条件は、何も情報を受け取らないままこの星まで私についてきてくれること、それだけ」
でも、道中感じたように、あの道を踏み外せばただでは済まないし、あの距離を歩く分の労力を使わせてしまう。
「オサムくんなら大丈夫だと信じてあの条件にしたけれど、ひょっとしたら危険な目に遭わせていたかもしれない。黙っていてごめんなさい」
申し訳なさそうに微笑む彼女を見ながら、扉を抜けた瞬間を思い出す。振り返って、心から安堵した彼女の表情。
手の届く距離にある体をそのまま抱きしめていた。彼女が少し困惑する気配が伝わってくる。体の芯から安心して大きく息を吐いた。
「……俺はその条件をクリアしたってことですよね」
「……うん」
抱きしめ返す感触が伝わる。
「あなたと一緒になってもいいってみんなに認められたんですよね」
「そうよ」
肩に額を乗せてもう一度安堵の息を吐く。掌で優しく背を叩かれる。
「結婚しよう、オサムくん」
嗅ぎ慣れた室内のにおいがして、顔を上げると見慣れた自分の部屋へ戻ってきていた。ナオトさんがテレポートを使ったのだろう。目を瞑って、穏やかに微笑む愛しい人を強く抱きしめる。星屑が見えた。