それはどう考えたってマスターには不釣合いなのに、ただひとつのどうでもいいような理由でその手首にぶら下がっている。
マスターの好きなダージリンを温めたカップに淹れて僕が戻ってきた頃には、もうマスターの関心は喉の渇きとは別のところにあって、ただ黙々と紙にペンを走らせていた。
オン・オフの入れ換えが激しい彼は先刻の気だるさはどこへやら、真剣な瞳で、紡ぎ出した言葉を縛り付けるように紙に書き記す。鬼気迫るその表情は彼の所謂オフの顔しか知らぬ者にとっては驚愕で、もう何度かそうして驚き息を飲む彼の知人を見てきた。その度に幾許かの優越感を僕が感じるのはさて置いといて、作詞に没頭するマスターの異様な色香に部屋の空気全体が当てられかけた今、闖入者として僕が入っていくことに少しだけ勿体無さを感じた。マスターは僕の気配だけは敏感に察知して、その空気を少し和らげるから。そうして失速するように徐々にペンを動かす手の速さが緩んでいき、部屋の空気が紅茶の香りで豊満に包まれる頃には、もうすっかりいつものマスターの顔に戻っていた。この変化の早さは、これ以上彼の色香に当てられて火照った意識を逸らせるほどのスペックがまだ足らない僕にとっては幸いだった。
ふにゃり、と笑ったマスターは片肘を机に立てて鼻をすんと鳴らしながら、ありがとうと礼を言った。僕もやわらかく笑うだけで答える。
熱いですからよく冷ましてくださいね、と猫舌の彼にいつも通りの忠告をしてから、自分も紅茶の入ったカップを手にとって口元へ運ぶ。横目で見遣った彼は子供のように両手でカップを支えて紅茶を冷ましていた。気だるそうな黒の瞳に同じく黒の睫毛が被さって、その上から染められた明るいブラウンの髪が更に被さっている。漸くカップに口を付けたマスターの左手首、そこには、僕のあげた鋼のブレスレットがかけられていた。
「まだ付けているんですか、そのブレスレット」
なんでもない風を装って何度目かの催促をする。
「うん」
すごく安易で短い肯定が今日も返ってきて、僕は宙を仰ぎたくなった。
ボーカロイドはいまや音楽業界にとって切っても切り離せないかかせないものとなっている。ボーカロイドを持つのが音楽家のステータスであるという時代を越え、ボーカロイドを持つのが音楽家として当たり前だという昨今の風潮の中、有名で超がつくほど人気のある音楽家のマスターがボーカロイドを有しているのは当然のことであった。このボーカロイドを「持つ」という言い方に異を唱える人々――つまりボーカロイドとは人格や心のある生命体なため彼らは人権と同等の権利を持つという意見派の人々と、ボーカロイドは音楽の幅を広げた重大なツールであるのは認めるがそれらに過剰な権利を与える必要はないという意見派で抗争が起こるのも一種の風物詩化している。そんな中僕のマスターは――別に(ボーカロイド特有の音が出ればいいし音楽とは関係ない権利がどうのこうのとかは)どうだっていいじゃん派――ようするに音楽以外にはまるで興味のない音楽馬鹿派なのだ。
マスターは僕のことを“歌う楽器”だと言った。
正しくは、こうだ、「カイトは67パーセントくらい歌う楽器で、30パーセントくらい家政婦だよね」
後者の比率が高くないかとか、それ以前に後者があることに最初何の疑問も抱かなかった僕も僕だけど、やっぱり家政婦扱いだったのかとか、色々と渦巻いてジト目になる僕の目をマスターは曇りのない瞳でまっすぐ見つめていた。
残りの3パーセントはなんですか、と訊ねてもマスターは何にも答えず、そっと僕の髪を優しく梳いた。
僕がマスターの家に招かれて、彼の為だけに歌うようになってからおよそ三ヶ月が経った時の出来事だった。
紅茶を飲み終えたマスターがギタースタンドに立てかけていた愛用のギターを手に取り、なんとはなしに弾き始める。フレーズにもなっていない即興の音の連なりから過去のアルバムに収録した彼の曲のサビメロディ、彼自身が好きなバンドのヒット曲のワンフレーズまで、様々な音楽が指先一つで自在に弾きこなされていく。その明確な目的を持たない指の動きと彼の変わらぬ気だるさが、彼が今オン状態でないことを示していた。要するに、ただの楽器との戯れに過ぎない。余計、面白くなかった。
(目の前に、僕がいるってこと、あなたはまだ覚えてくれていますか)
マスターの視線がヘッドの辺りをなぞって、弦に沿うように流れてゆき、またヘッドへ戻って留まる。胸が焼け付くような心地がした。“歌う楽器”と呼称された以上、僕とそれ以外の意思を持たない楽器たちは彼の中では同位置に置かれていると推察できる。僕と「彼ら」の違いは意思を持たぬところか、それとも所有者が望んでもいない声を勝手に出すところか、人型かどうかか、はたまた、違いなど感じられていないのかもしれない。家政婦代わりに紅茶を配給してくる役目を終えた僕は、この部屋に置かれた他の楽器たち同様に「待て」を命じられているのだろうか。楽器の主が自ら手を出して構おうとしない限り、ぼうっと眺め待つことしかできない。たとえ、主が他の楽器に触れている時でも。向こうから触れてこない限り、音を出すことだってできやしない。普通の楽器ならばそうだ。嗚呼、不公平なことに、この身には主に構いなく音を発することのできる唇が備わっている。便利な代物がなおさら、歯痒さを沸き立たせる。音を紡げない理由を言い訳できないように追い詰める。彼が、見てくれないからだ。
言いたいことなど特にない。弾かれる音楽はいつまでも聴いていたいほど耳に心地よさを与えてくれる。ただ、その目を離してほしかった。手が触れるのを止してほしかった。――此方を、向いてほしい。その手を
「カイト」
視界に黒い瞳が真っ直ぐ見つめてくる映像が入っていることに、数秒遅れてから気がつく。気がつくと、じわじわと羞恥心が首筋から這い上がってきてこめかみすらを朱に染めた。きっと羞恥心だけではない。鼓動を高鳴らせる原因の感情を自覚して、また更に羞恥が湧き出してくる。長い指が弦を弾くのを止めてわざとらしくボディーを滑り落ちた。その映像にぐちゃぐちゃと思考を掻き乱される。
「触れたくなっちゃったんだ?」
意地悪い瞳で言い放つ。正確には問いの真逆が答えだけれど、そんなこと伝えられるわけがない。曖昧に頷くと、マスターは両腕で愛器を支えながら此方にはい、と差し出した。うちのマスターは別にこういう感情に鈍感な性質ではない。むしろ僕より聡い方だから、こうやって僕をからかう余裕を持っているのだ。
仕方なく受け取ってしまった六弦を膝の上に乗せた。弦を弾くポーズをしようとして、しかし躊躇した。――この楽器は、主以外が触れることを許してくれるだろうか。ううん、それ以前に、僕のことを認めてくれているだろうか。
完全な楽器でも完全な人間でもない中途半端な僕が怖がっているのを、マスターは敏感に察知して言葉をくれた。「ソイツ、お前のことちゃんと認めてるよ」
根拠のない戯言だと分かってはいても少し安心する。が、すぐ後の言葉に目を丸くした。
「拗ねてるけどね」
「……拗ねる?」
「嫉妬してるんだよ、カイトに」
直球すぎる言葉に息を詰めらせた。意味を計りかねて、硬直する。マスターが楽しそうに目を細めながら左腕を伸ばして、右耳にかかる髪を擽った。人差し指がほんのすこし耳殻に当たってそこだけが途端に熱を持つ。
「カイトってほんとう、面白い」
失礼な物言いに反論もできず、耳の中へ指の侵入を許してしまう。望んでいることがバレて与えられているだけかもしれなかった。やっと触れてきた指先は意地悪く、敏感な内面を翻弄する。親指と薬指で耳朶を擦られ、人差し指と中指で中を掻き回される。右半身だけにしか神経が通っていないかのように意識が集中して、知らず息が上がっていく。
「……っ、ふ、……」
耳だけで感じているのを悟られたくなくて唇を引き締めるけれどどうしても甘い吐息が漏れてしまって、せめて劣情が映りそうな瞳だけでも隠そうとすれば逆に感覚神経を研ぎ澄まさせてしまう。大切なギターを床に落とすわけにもいかず両腕が塞がったままで成す術もない。耳に触れられるだけの焦れったさにそろそろと他の欲情が擡(もた)げ始めた頃、不意にギターの軽い音が辺りに響いて驚きに目を見開いた。
見れば、マスターの右手が僕の抱える愛器の弦を爪弾いている。
「わかる? カイト」
ポロン、ポロン、と優しく弦を弾く手付きに気を取られて、反応するのに遅れてしまった。質問の意味が分からず へ、と間抜けな声を上げる。
「コイツ、カイトが来て以来……いや、もうちょっと後か、それ以来から調子悪いことが多くなったんだよ。他の楽器もそう」
素人が言えば到底信じてもらえないだろう事柄を、彼が口にするだけでこんなにも信憑性が上がる。『全ての楽器と相思相愛な男』――伊達にそんな大袈裟な煽り文を雑誌に入れられた人物ではない。
「それ以来」の「それ」が何を指すのかはカイトにも色々と思い当たる節がある。恐らく最も正解に近いのは、二ヶ月前にマスターに告白されて付き合いだした、あの時のことだろう。だが付き合いだした日は、あの優しく髪を梳かれた日から約十ヶ月後にあたる日付だ。マスターの言う「もうちょっと」という言葉にしては、時期が離れすぎている。そうなると、「楽器が嫉妬する」兆候が見られ始めた時期というのはつまりは……彼が僕のことを好きになりだした時期ということになる。
「……マスターが歌以外を収録する時に僕を呼ばなくなった理由は、そういうことですか」
「うん」
ずっと疑問に思っていたわだかまりが思わぬところで解けて拍子抜けをする。ただ、まだ完全にマスターの口にしたことを信じられない。困惑が顔に出ていたのか、マスターは補足をするように説明した。
「カイトが他の楽器に嫉妬するように、他の楽器もカイトに嫉妬するんだよ。しかも、その嫉妬はカイトが楽器にするそれの比じゃないと思うよ」
自分が楽器に対して嫉妬している前提で話されることに、頬が熱くなる。
「そんなに、僕の嫉妬ってわかりやすいですか」
黙って穏やかに微笑され、あ、墓穴を掘ったなと瞬時に理解した。思わず俯いて目を逸らす。
「どうして……比じゃないんでしょうか」
ある意味分かりきったことを尋ねる自分の狡猾さが可愛くなかった。でもその答えを聞けることで、自身の嫉妬心を和らげられる気がする。
俯いた先にあるマスターの右手が弦を離れ、段々と顔に近づいてくる。顎を捉えられて顔を上げさせられ、いつのまにか耳に添えられていた左手は後頭部を押さえて、首から上を完全に固定された。唇に降りた柔らかい感触に思考が蕩ける。頬に移動した右手が熱い。尖った舌先で上唇と下唇の間を突かれ、促されるまま口を開けばぬるりと口腔に侵入される。為されるまま蹂躙され、舌を吸われると背中に電流が走ったように体が跳ね上がった。熱っぽい吐息と唾液を溢れさせてはしたない声を上げる。ようやく解放されて瞳を開けるとそこにはいつも通りの気だるげな瞳の奥に、獣欲を灯し始めた彼の顔があった。
「俺がこんなことしたくなるのはカイトだけだから」
淡々とした声色で与えられた答えに、心から満たされる感覚を得る。僕が本当に欲しかった直球な答えとは違うけれど、十分すぎるくらいに自尊心を満たしてくれた。僕がまだ荒い息を吐いている間にマスターはギターを取り上げてスタンドに立てかけなおす。そうして、ゆっくりと押し倒された。
壁にかかった時計が目に入る。窓のない防音室で失われた時間感覚をそこで取り戻した。まだ、夕方が近づいた頃の時刻だ。
「ます、た……まだ、夜じゃないですよ」
「誘ってきたのはカイトでしょ」
どういう意味なのかと問いたくなる。頬の熱さも引かぬうちに脇腹から手を差し込まれた。明確な意図をもって弄られ、より息が上がってゆく。少しでも顔を見られたくなくて首を傾げると、ある物が視界に映った。
(あ、)
僕のあげた鋼のブレスレット。それがマスターの左手首で揺れていた。
瞬間、どうにも我慢できなくなる。
「マスター、あの、」
「なに」
「それ、外してください」
マスターは最初何のことか分からないといった顔をしたが、僕の目線ですぐに気が付いたようだ。そして僅かばかり顔を顰めた。疑問の色が浮かんでいる。僕はついにはっきりとお願いを言ってしまったとそればかりが胸中を渦巻いていた。
「前から不思議だったんだけど、何で俺にこれはめてほしくないの」
「似合わないからって前言ったじゃないですか」
いつも自由を感じさせる独創的な身のこなしの彼に、無機質で手錠を思わせる腕輪は不釣合いだと僕は思う。贈って、マスターが着けてみた途端そのことに気付いた僕は馬鹿だ。それなのに、僕からの贈り物という理由だけでマスターはずっと身に着けている。
「似合わないことないと思うよ。お前が選んだだけあってセンスいいし、気に入ってるよ、俺」
じっと見つめてくる。視線に耐えかねてぎゅっと目を瞑った。真っ暗な闇の中でも彼の手首にある銀色が浮かび上がる。そっと息を吸った。ぼくがいやです、と言った。
「恥ずかしいの?」
「マスターが恥ずかしいということでは、決してなくて、僕が」
「カイトこれどうして俺にくれたんだっけ」
「……お店でたまたま目に入って格好良いからマスターにあげようと思って」
「ほんとうは?」
ぐ、と言葉に詰まったがそれを彼が見逃してくれる気配はない。さっきとは別の理由で赤くなる頬を片腕で隠して、ぼそぼそと真相を伝えた。
「怒らないでください。……あなたの鎖にしたくて買いました」
腕輪は僕の独占欲の顕れだ。無機質な鋼をどうして贈りたくなったのか、彼が身に付けてから自覚した。不釣合いな手錠をあげたことに後悔しても時既に遅しで、それでも彼が放置してくれればよかったのだ。いつまでも着けられ続けると、いつまでも思い知らされる。彼を独り占めしたい自分に。
ふいに笑い声が聞こえて目を開けた。ゆるりと弧を描く唇をつけた男の顔が見える。驚くと同時に、艶の色に息を呑んだ。
「可愛いもんだね、お前」
優しく頬を撫でられた。かぷりと食まれ、呆気に取られている間に腕は外されて床に下ろされる。頬から鼻を甘噛みした唇がそっと離れて言葉を紡いだ。
「俺なんかもっとすごいよ、一生外せないものかけたから」
「なんですかそれ」
「俺のものって名声」
思考が追いつかない。マスターがクイズのように言う。
「俺が付き合おうって言ったのは何の日?」
「……僕のデビュー日です」
「お前が俺の物って世界に知られた日」
ボーカロイドはデビューと共に製品番号が所有者の名と並んで公開される。それは一生形に残る。
「みんなに俺のものって知らせてから付き合うために、好きになってから一年以上待ったんだ。どっちが重いと思う」
ようやく追いついた思考はすべてを理解して今度は導かれた結論にパニックを起こした。歌うように囁かれた問いには答えられず、ただでさえ色んな思いで紅潮しているのに動きを再開して更に大胆になった手指に追い詰められる。話は終わったとばかりに動き、腕輪を外す気がまるでない彼はふと思い出したようにいつかの言葉を真似た。
「カイトって47パーセントくらい歌う楽器で、13パーセントくらい家政婦だよね」
残りの40パーセントはなんですか、と訊ねても意味がないから、僕はそっと目を閉じた。