「やったな、大将」
「ああ」
幸村と佐助が見つめるのは城下の穏やかな町並みだ。乱世が集結し、平和そうに見えてもどこか緊張感があった民の暮らしに、本当の平穏が訪れた。
「佐助、あの約束を覚えているか」
「無事天下を納めたら頼みたいことがあるって話だろ? なんなりとお申し付けくださいよ」
「いや、頼みというよりはお願いに近い……佐助、あのな」
「うん?」
「俺の」
おいしそうな匂いにつられて一旦ゲームを中断し台所を覗いた幸村が見たのは、パンケーキを焼く佐助の後ろ姿だった。ちょうど焼き始めたところだったのか、フライパンに流し込まれた生地がパチパチと弾ける音が聞こえる。テーブルの上にふわっふわの一枚が乗ったお皿があって、どうやら二枚目を焼いていることが分かった。
そういえばこの前の夜ふいにパンケーキが食べたくなりそのままの気持ちを隣に座る相手に伝えたのだと思い出す。
あのときはお店に独眼竜と男二人で行ってくれば、と素っ気なく返されたのに、結局作ってくれているのだなと幸村は顔を綻ばせた。
「そこでじっと見てないで座って待ちなよ旦那」
飛んできた声にぎくっと体が固まる。佐助は振り向かずに前を向いたままだ。仕方なく幸村は席に着いた。
「お前は相変わらず気配に敏すぎる」
「足音聞こえりゃ分かるってそりゃ」
幸村は忍び足で来たつもりなのだ。元忍に忍び足が効かぬとすっかり理解しながら。そっと歩いてきた理由は、
「あわよくばつまみ食いしようたってそうはいかせない」
「……」
まあ全部、分かっているのだが。
数分後、佐助が二段のパンケーキを自分の前に、三段で生クリームとさくらんぼが乗ったパンケーキを幸村の前に置くことだって幸村は分かっていた。
「うまい!」
ガツガツと食べ進む幸村に軽く呆れたように佐助が微笑む。流しっぱなしのテレビからアナウンサーの声が明日の天気を伝えてくる。
「なに、また寒くなんの?洗濯物乾くかな……旦那も布団蹴っ飛ばして風邪引いたりしないでよ、インフルエンザだって流行ってるんだし」
何気なく言った佐助の言葉に幸村の動きが少し止まった。気付いた佐助が不思議に思いながら見つめる。
「どうした旦那」
「佐助」
少しだけ真剣さを含む声が佐助を呼んだ。しばし空白ができる。
「もう一度」
「はい?」
「俺を呼べ」
幸村が笑っている。佐助は疑問に思いながらも口を開けた。
「旦那」
「うむ」
「え、ちょ、なに」
満足げにまたふわふわの塊にフォークを刺して、幸村がくるりと笑んだ。
「今朝な、」
「うん」
「夢を見たのだ、昔の」
「……それって、400年くらい昔の?」
「俺が天下泰平を成した時」
それはまた懐かしい、と佐助がコーヒーを啜る。
「ああ、」
佐助は勘が良かった。
「それか」
ほどよく甘いクリームが幸村の舌で溶ける。
「俺のことをまた昔のように呼んではくれぬか」
幸村のその願いに佐助は目を剥いた。次いであー、やえー、などの意味のない言葉を口で紡ぐ。
「……弁丸様」
「そっちではないわ阿呆」
「ですよねー」
何故か周りを窺うように視線を左右にやってから、佐助はようやく、目を瞑り一度コホンと咳払いをして幸村と向かい合った。
「……おつかれさん、旦那」
「ああ!無事成し遂げたぞ佐助!」
言いながら、全力でタックルしてきた幸村をなんとか受け止めて、その顔を見て笑う。天下人も人の子。虎だってまだ青年。愛する人の腕に抱き締められながら、幸村は静かに喜びの涙を流した。
ふと気が付いてな、と幸村は言う。
「何に?」
「俺が有り難くもお館様から武田軍総大将を任じられて以来、お前は俺のことを大将と呼ぶようになった。おかげで俺も総大将になった自覚を強く感じ己を鼓舞できたが、やはりどこか寂しくもあった。もうほとんど俺のもう一つの名のように感じていたからな」
だんな、そこでわざと呼んでみる佐助に幸村がささやかに抵抗する。
「ちょっと、足踏まないでよ」
「いいから聞け」
「まだ俺様の質問に答えられてないんですけど」
「それをこれから話すんだ。俺はな、佐助。もうお前に以前のように愛されぬのではと怖くなった」
「……は?なんで呼び名の話でそうなる、んだ」
覚えがなかったとは言わせない、と緋色の瞳が詰るように見つめる。佐助は罰が悪そうに目を逸らした。
「お前にも色々と葛藤があったんだろう」
「やーっぱバレちゃいますか旦那には。恥ずかしいとこ見られたことも何度かあったし」
「そうだな……例えば俺がお前の居らぬ時奇襲にあって駆けつけてから開口一番に口走った言葉が『心配させんな旦那』であったり……」
「あーやめて、いい、それ以上は言わなくてほんっとうにいい」
「戦中目の前で俺がよろめいて敵に斬られそうになった時とっさに『旦那』と叫んでいたり……」
「やめろって、もぉ、ていうかあんたよく覚えてんな」
「滅多に呼ばれぬようになった名だからな、あれ以来呼ばれた数回は全部覚えているぞ」
にこにこと嬉しそうに言うものだから佐助はぐうの音も出せなくなる。心の中で呼んだ回数なら数回じゃ済まないのだとは絶対に教えられない。
「もう俺たちの仲には切っても切り離せない呼び名なのだと気が付いてな。しかも、どちらかが言い出さないともう死ぬまで平常に呼ばれぬだろうということも」
「……」
「だから俺が言ってやったのだ」
ごくごくと偉そうに胸を張りコップの中の紅茶を飲み干す。その性急さと、髪から覗く耳の色で照れ隠しなのは丸分かりだ。これだからこの主様は、と佐助もコーヒーをゆっくりと飲み込んで思案する。
「ねぇ、『幸村様』じゃなくてもよかったの」
「察しが悪いぞ、佐助」
「じゃあ、俺様自惚れてもいいんだ」
お皿片付けるよ。そう言って佐助が立ち上がる。幸村がにやけながら佐助の頬を擦り、熱いなと笑った。すかさず触れた手を取って急襲し、佐助は自分が泡立てたクリームの甘さを味わう。ずっと呼び方が自由なこの世に生まれて良かったとどちらかが言い、同時に笑った。
虎にはたった一人からしか呼ばれない名がある。